2006年 05月 07日
私が缶コーヒーを飲まなくなった理由~ある男の告白~其の壱 |
私は専業農家の家庭に生まれた。私が小学校高学年の時、長雨と冷夏のために農作物が生育不足に陥り、我が家の田畑は全滅した。家には膨大な借金しか残らず、それまで月五百円だった私の小遣いは零になった。
その翌年の草いきれがむんむんと立ち込め、セミの耳障りな鳴き声が辺りをこだましていた夏の日。カブトムシ採りの帰り道のこと、さっきまでクヌギの幹から溢れ出る甘い樹液の匂いに鼻腔がくすぐられてしまったのか、私は自動販売機の前を通りかかったとき無性に缶コーヒーが飲みたくなった。そうだ、そのとき私は缶コーヒーでなければならなかったのだ。果汁入りのジュースでは充たされなかった。そんなものは、道端のスイカ畑を横切れば解決してしまうことだった。しかし私には、缶コーヒーを飲むお金が無かった。コーラ飴一つを買うお金すらズボンのポケットには入っていなかった。私は、販売機の底にお金が落ちていないかと躰を地面に伏せて覗いたり、手を突っ込んだりしたが、手や腕が埃によって黒くなるばかりで、お金らしき感触を手にすることは無かった。
私はあきらめ、気分転換に近所の山の頂を目指すことにした。小径の入口に差し掛かったとき「農耕」と刻まれた巨大な石碑の隣に目をやると、荒神が奉ってある祠が目に入った。その祠の土台部分には、菊の花や甘酒などの供物と共に無数の錆びて黒ずんだお金があった。それを見るなりすぐさま脳裏には自動販売機の缶コーヒーが浮かんできた。私は周りを一瞥し、辺りに人影が無いことを確認すると、恐る恐る缶コーヒーを買えるだけの賽銭を盗り、今来た道を飛ぶように引き返した。
私は冷たくて甘い缶コーヒーを喉を鳴らしながら一気に飲んだ。こんなにコーヒーが美味いと感じたことは無かった。私は労無くして欲望を満たせることに味を占め、それ以来缶コーヒーを欲するときには、祠から盗んだ賽銭で買っていた。私には罪の意識が全くなかった。何故なら、私が缶コーヒーを飲めないのは、我が家の作物を腐らせた荒神の所為だと思っていたからだ。
しかし、そんな醜行はいつまでも続かなかった。
ある時、いつものように、缶コーヒー代を盗みに祠へ行くと、真新しい白木で作られた賽銭箱が据え付けられてあり、蓋には大げさな程頑丈な南京錠がしっかりと掛けられていた。私は、私の悪事が他人に知られてしまった、という恐怖をその時初めて悟り、混乱し、頭が真っ白になった。それ以来、小さな災いが私に降りかかると、その度、荒神の祟りだと煩悶し、体中に戦慄が走った。誰かに追われている錯覚に陥り、ことある度に後ろを振り返った。ケヤキの木からすべり落ち、太ももを三針縫う羽目になったとき、私の背中を荒神が押し、殺そうとしたのだと思った。
炎天下の中、帽子を被らず野山を駆け回ったことが原因で高熱を出し、寝込んでしまったとき、隣の茶の間から両親の会話が断片的に耳にはいってきた。
「ここんとこ、トオルの様子がおかしいずぃ、目元が何となくつり上がってきちょるやに感じぃがー」母は父に向かってそうつぶやいた。
「ひょっとして頭がイカレテしもうたのではないかね」父は言った。
私はそれを聞いて、荒神が私の体を既に支配してしまったではないか、いや、体内に化け物の卵を宿し、それが孵化したときエイリアンの如く、私の腹を切り裂さき鮮血の飛沫と共に飛び出してくるのではないか、いずれにしろ、余命幾ばくも無い未来を思うと、唇は震顫し、幾筋かの汗が背中を横切った。目の前は白い霧に包まれ、それらはゆっくりと揺曳し始めた。このままでは、荒神によって殺され地獄に落ちてしまう、薄れゆく意識のなかで、そう感じた私にある一つの言葉が体の奥深くから浮かび上がってきた。
いやそれは、私のすぐ近くで誰かが囁いたようにも感じられた。
「燃やせ」
「今すぐ、祠を燃せ」と。
つづく
その翌年の草いきれがむんむんと立ち込め、セミの耳障りな鳴き声が辺りをこだましていた夏の日。カブトムシ採りの帰り道のこと、さっきまでクヌギの幹から溢れ出る甘い樹液の匂いに鼻腔がくすぐられてしまったのか、私は自動販売機の前を通りかかったとき無性に缶コーヒーが飲みたくなった。そうだ、そのとき私は缶コーヒーでなければならなかったのだ。果汁入りのジュースでは充たされなかった。そんなものは、道端のスイカ畑を横切れば解決してしまうことだった。しかし私には、缶コーヒーを飲むお金が無かった。コーラ飴一つを買うお金すらズボンのポケットには入っていなかった。私は、販売機の底にお金が落ちていないかと躰を地面に伏せて覗いたり、手を突っ込んだりしたが、手や腕が埃によって黒くなるばかりで、お金らしき感触を手にすることは無かった。
私はあきらめ、気分転換に近所の山の頂を目指すことにした。小径の入口に差し掛かったとき「農耕」と刻まれた巨大な石碑の隣に目をやると、荒神が奉ってある祠が目に入った。その祠の土台部分には、菊の花や甘酒などの供物と共に無数の錆びて黒ずんだお金があった。それを見るなりすぐさま脳裏には自動販売機の缶コーヒーが浮かんできた。私は周りを一瞥し、辺りに人影が無いことを確認すると、恐る恐る缶コーヒーを買えるだけの賽銭を盗り、今来た道を飛ぶように引き返した。
私は冷たくて甘い缶コーヒーを喉を鳴らしながら一気に飲んだ。こんなにコーヒーが美味いと感じたことは無かった。私は労無くして欲望を満たせることに味を占め、それ以来缶コーヒーを欲するときには、祠から盗んだ賽銭で買っていた。私には罪の意識が全くなかった。何故なら、私が缶コーヒーを飲めないのは、我が家の作物を腐らせた荒神の所為だと思っていたからだ。
しかし、そんな醜行はいつまでも続かなかった。
ある時、いつものように、缶コーヒー代を盗みに祠へ行くと、真新しい白木で作られた賽銭箱が据え付けられてあり、蓋には大げさな程頑丈な南京錠がしっかりと掛けられていた。私は、私の悪事が他人に知られてしまった、という恐怖をその時初めて悟り、混乱し、頭が真っ白になった。それ以来、小さな災いが私に降りかかると、その度、荒神の祟りだと煩悶し、体中に戦慄が走った。誰かに追われている錯覚に陥り、ことある度に後ろを振り返った。ケヤキの木からすべり落ち、太ももを三針縫う羽目になったとき、私の背中を荒神が押し、殺そうとしたのだと思った。
炎天下の中、帽子を被らず野山を駆け回ったことが原因で高熱を出し、寝込んでしまったとき、隣の茶の間から両親の会話が断片的に耳にはいってきた。
「ここんとこ、トオルの様子がおかしいずぃ、目元が何となくつり上がってきちょるやに感じぃがー」母は父に向かってそうつぶやいた。
「ひょっとして頭がイカレテしもうたのではないかね」父は言った。
私はそれを聞いて、荒神が私の体を既に支配してしまったではないか、いや、体内に化け物の卵を宿し、それが孵化したときエイリアンの如く、私の腹を切り裂さき鮮血の飛沫と共に飛び出してくるのではないか、いずれにしろ、余命幾ばくも無い未来を思うと、唇は震顫し、幾筋かの汗が背中を横切った。目の前は白い霧に包まれ、それらはゆっくりと揺曳し始めた。このままでは、荒神によって殺され地獄に落ちてしまう、薄れゆく意識のなかで、そう感じた私にある一つの言葉が体の奥深くから浮かび上がってきた。
いやそれは、私のすぐ近くで誰かが囁いたようにも感じられた。
「燃やせ」
「今すぐ、祠を燃せ」と。
つづく
by niagara-cafe
| 2006-05-07 19:25
| ■与太話■
|
Comments(6)
Commented
by
まるいち
at 2006-05-07 20:44
x
なんだか怖いんですけど・・・
やっちゃうんですか?
やっちゃうんですか?
0
Commented
by
niagara-cafe at 2006-05-08 07:27
Commented
by
チバ
at 2006-05-08 22:37
x
おお!すごいお話ですね。つづき楽しみにしています。
私も缶コーヒーが飲めなくなりました。
喉がヒリヒリ、張れあがり、目は霞み、神経はヒクヒクし、脈は速くなり
意識が薄らぎました。あまりに怖かったので残りはすぐに捨て、ウーロン茶を飲み中破させました。
缶コーヒーの保存料か、残留農薬か分かりませんが、信じられない缶コーヒーでした。3年前の話しです。
喉がヒリヒリ、張れあがり、目は霞み、神経はヒクヒクし、脈は速くなり
意識が薄らぎました。あまりに怖かったので残りはすぐに捨て、ウーロン茶を飲み中破させました。
缶コーヒーの保存料か、残留農薬か分かりませんが、信じられない缶コーヒーでした。3年前の話しです。
Commented
by
niagara-cafe at 2006-05-09 18:22
Commented
by
niagara-cafe at 2006-05-09 18:23
伝次郎さん
ぼくも最近飲まないようにしていましたが、昨日出先でおごってもらったので、一本飲みました。おごりだと非常に美味くなるから不思議です。
ぼくも最近飲まないようにしていましたが、昨日出先でおごってもらったので、一本飲みました。おごりだと非常に美味くなるから不思議です。