あの人は海岸道路の脇に車を止めた。
私は助手席の窓越しから外を見る。
仄かに見える、
誰もいない秋の終わりの海の広がり。
紺碧の空に低く立ち込めている鉛色の雲の群れは、
しぼんだ風船みたいに水平線の上に重なるように浮遊していた。
窓を少し開けると潮風が喉笛のような音をたてながら車内に滑り込んでくる。
あの人はずっと運転席から黙ってフロントガラスを睨んでいた。
窓を閉めると、まるで私の日々の生活のような静寂がやって来た。
陰惨な空気はどこにもなく波の音は私の耳に届いてこない。
静寂が言葉を遮るのではなくて、潮風が私の言葉を錆び付かせるのだ。
言葉だけではない、思考回路さえ完全に固めてしまう。
あの人が沸かしてきた魔法瓶の中の熱いマンデリンをすすりながら、
夜が明けるのをじっと待っていた。
ドブの臭いが微かにするマンデリン。
ひとくち飲むと臭い以上に酷いエグミが口いっぱいに広がる。
「美味しい珈琲ですわ。この上なく。」
お世辞にも程がある言葉を口走ったばかりに人生が大きく変わってしまった。
あの人の人生と、そして私の人生。
あの人は私のほうを見た……。
程なくして『あの人』から『主人』に変わった。
そして今、阿呆のように天井の一点を凝視している主人に語りかける。
あなた生きてますか?
主人の目は完全に死んでいた。
普段から口数が少なかったから、二目とは見られないほど憔悴し、もはや木偶の坊と化した今や屍みたいに口はなく、主人の陰翳が目に入るたび、今にも死臭が漂ってきそうな気がした。
どきどき輪郭さえもぼやけているときがあり、その度ドキリとさせられた。
端の頃は、夜な夜な呻吟していた主人も、宵闇が重なった頃から漸減し、近頃は仏像のように口は堅く閉ざされていた。
主人が焙煎機の前に立たなくなってもう3週間にもなる。
ときどき買いに来ていた近所の男子高校生に
「この店の珈琲は、季節の移り変わりと共に味も変わる。夏場はとくにエグミが酷くなる。」
などと指摘されてから今日に至るまで、奥の薄暗い湿った部屋の真ん中で寝ッ転がり、天井をボーっと見上げる日々が続いていたのだった。
呪詛に自分の身体を縛り付けていた。
いや身体のそこで屈辱が岩のように固まっていた。
主人は完全によその国へ行っているようだった。
あなた窓くらい開けてくださいませ。
……。
返事は無い。
一日中横になっている。
何もしない。
いやオナラはする。
しかも恐ろしく臭い。
地獄谷の泉源から漂う卵の腐ったような臭いだ。
あんたは、スカンクの生まれ変わりか!?
などと叫喚しても、反応は無い。
返事がないことほど虚しいことはない。
だから私も次第に声を掛け辛くなってくる。
高校生のガキの言ったことなんて気にすることはない。
あなたの朴念仁の態度が気に入らなかっただけです。
優越者として傲慢さを誇示していただけ。
珈琲のことだって針小棒大にいってみただけですわ。
シニカルで怨念にみちた目をしていたでしょ。
あんな独善的で大人を僭するようなガキの言葉を本気にすることなんてありませんわ。
と主人を励ますのだけれど、自意識が空回りしているみたいで、傷口は深く癒える兆候はまったく見られなかった。
このまま主人が珈琲を焼いてくれなかったら、家族は飢え死にしてしまう。
まだ一歳と半年になったばかりの息子のおまんまだってもうすぐ買えなくなる。
まさか飢えをしのぐために生豆を与えるわけにもいかない。
それに富士ローヤル3キロ釜のローンや今月の家賃の支払も迫っている。
このままじゃ払えないわ。
本当に困った。
あのクソガキがマセたことを言ったせいでとんでもないことになったわ。
お前なんか、珈琲なんか飲まずに鼻水を垂らしながらトンボっても追っかけてろ、っていってやりたい。
ガキの家に行って厳しく糾問してやりたい。
世界の山下ばりの一本背負い投げを食らわせてやりたい。
いつの間にか私は鏡に向かって悪意のこもった目で睨みつけていた。
私は毎日主人を見るたび、高校生のガキを譴責していた。
あらいやだ。私ッたら。
オホホホ・・・仮にもお客様に向かってなんてこと。
お客様は神様だって三波春夫もいってたわね。
でも今は、売る豆は一粒たりともお店には無いわ。
棚の空き瓶を睥睨してみる。
すると「ここは空き瓶屋ですか?」
などと嬉しそうに言いながら斜向かいの吉田果物屋の主人が入ってきた。
スイカを丸ごと飲み込んだみたいな醜い腹をユサユサと揺らしながら。
「お黙り!」
私は吉田果物にピシャリと言い放つ。
何だか目眩がしてきた。
空き瓶が突然私に迫ってきて、私の裡にある憂愁と怒りをぐるぐるに掻き回す。
火山のように今にも怒りが噴出しそうだ。
怒りを静めるために、切花にした葵の花のようにしぼんでいる主人の背中に向かってアリキックを何発かかましてみる。
反応はない。
私の喉が虚しくピーピー鳴くだけだった。
こんなことだったら、普段は退嬰的な事なかれ主義の主人が、珈琲屋を始めたいなんて言い出したときに断固反対するべきだった。
市役所の建築指導係で、適当に働いていてくれればこんなに苦労することもなかっただろうに。
このまま公務員で人生を終わらせたくない、
何か大きなことをしてみたい、などといっておいてこのざまですか。
ねぇ。
あなた何か言ってくださらない。
東の空が仄白くなる。
水面が煌き、雲の輪郭が浮き上がり出すと、最後の星が空にゆっくりと溶け込んでいった。
世界の始まりだ。
目を閉じると、寝不足の所為か頭の中が揺れ始める。
荒波に揉まれながら、方々仔細に眺望し島影を求める。
墓標ほどの岩礁すらぼくの前に現れることはなかった。
彼女が、珈琲を揺らすたび、地面は波打ち、ぼくの体は激しく上下左右に振られるのだった。
ぼくは窓を小さく開け、冷えはじめた潮風を受け入れる。
潮風が車の中で膨らんでぼくの鼻腔をくすぐる。
なんだかマンデリンが塩辛く感じる。
やはり海に珈琲は似合わないのか。
最悪……。
「風、なかなか止まないわね。」
と彼女が言った。
ぼくは、このまま止まなきゃいいのに、と思った。
続く